6/21(水)夏至を過ぎ、夏です。 2023.6/25(日)

≪今週のみことば≫

「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」マタイの福音書7章1節

説教題:『人を裁かない者に』   聖書:マタイの福音書7章1~5節

   

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネの福音書16章33節)は、今年の私たちの教会に与えられた新約のみことばで、まことに力強いです。「苦難」「なやみ」(口語訳)の中で、人間関係の悩みは大きな部分を占めているかと思われます。「山上の説教」の中で、イエス様は「さばき合う」ことについて語られます。「さばく」とは、「人を自分の尺度で判断したり、決めつけたりすること」を意味しています。このことについても勝利して下さった主にあって、私たちも勝利にあずかるべく勇気を出したいのです。

Ⅰ.「さばく」ことのゆるされない者 「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」(1)すべての人は神の御前に罪人です。ここでイエス様が繰り返し言われる「偽善者」です。表面的な姿と内面とが違っている人物のことです。①相手を知らないゆえ。家族であっても、親しい友人同士であっても、お互いにその多くの部分、特に内面はなかなか知り得ないものです。ましてや初対面の人や、日頃それほど交わりのない人同士においてはなおさらのことです。実は神様と私とだけが知る部分がどれほど大きいことでしょう。ですからとかく見た目での判断には狂いが多く、そこからついつい「さばく」行為になったり、行為にまで行かずとも、心の内で「さばく」ことがいかに多いことでしょう。 ②自分を知らないゆえ。 <自分のことは自分が一番よく知っている>と誰しも思いがちです。しかし意外と自分自身について知らない部分は多いということに気づいてきます。ここではイエス様は強調的な表現をされ、「自分の目には梁があるではありませんか。」(4)とはっきり言われます。「あなたの兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁にはなぜ気がつかないのですか。」(3)「ちり」とはおが屑のこと、「梁」とは丸太を示します。つまり自分のことを棚に上げて、他の人のことばかり気になるような偏見をさして、イエス様は言われます。<自分のことを案外知らない>ということについて、主を否んだペテロがよい例のように思われます。自分を、自分が知る以上に知っていてくださるお方、それが神であり主です。

Ⅱ.「さばく」ことのできるお方 唯お一人、まちがいなく「さばく」ことのできるお方が、父なる神であり、子なる主イエス・キリストです。その「さばかれる理由の何もないキリスト」を、父なる神が十字架の上でさばかれました。私を含む全人類の身代りとして、キリストは「さばかれました。」そのことを認めて、すなわち自分の罪を認めて十字架の身代りを信じる時、すべての罪がゆるされ、きよめられます。そのようにされた者は、キリストのように相手をゆるすと共に、神のみ前に義なる道へと共に歩む者とされます。 「まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。」(5) 自分の罪を認め、かつ、その罪がゆるされて霊の眼が開かれて、互いにさばき合うのでなく、ゆるし合い、「互いに訓戒し合うこと」ができるようになります。(ローマ15・14)。もう一つパウロによる慰めと希望のみことばが、コリント人への手紙第一4・3~5、そしてペテロは、主ご自身の「さばき」に関しての生きざまを、ペテロの手紙第一2・22,23に記しています。

  <お知らせ>

▶早くも6月を終え、今週中には「今月のメッセージ」「7月のお祈り」「ヘッダー(チェリー)」が更新されます。

▶今年は、8/1(火)には「教区デイ・キャンプ」が小松島にて行われます。「今年、キャンプはありますか?子供が行きたがって聞いてきました」との問い合わせの電話が求道者のお母さんから入り、喜びました!

▶秋、10/8(日)の、「教会創立74周年記念聖日」には、午前、記念礼拝、午後には、岸義紘先生をお招きしての「サックス&メッセージコンサート」が行われます。今よりお楽しみに、伝道意欲満々です!救霊の実をたくさん主におささげできますように~!!