「聖書」は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻の合計66巻からなっています。で、その内容は、成立以来変わらないというのが建前ですが、実際には考古学の新たな発見や解釈の進歩によって改められてきたところもあります。ミケランジェロのモーセ像に、額に突き出たものがあります。レンブラントが描いたモーセにも。これは角(つの)で、現代の聖書では、「モーセの顔が光り輝いていた」と記されている部分が、かつては「ツノが生えた」と訳されていたからであると言います。
ヨエル書の4章が無い!
先日、教会の礼拝に出席した時の聖書の箇所がヨエル書の4章でした。ヨエル書は、旧約聖書の後ろの方にある、いわゆる小預言書の一つで、新約聖書に引用があるもののあまり馴染みのないところです。で、早速開こうとしたところ、私の聖書(新改訳聖書第3版)には、4章がない!3章までしかなかったのです!なんで!
よく良くみてみると、新共同訳聖書、聖書教会共同訳聖書では、口語訳聖書や、新改訳聖書の、ヨエル書2章の最後の数節が、第3章となっていて、3章は、そのまま4章になっていることがわかりました。この違いは、聖書翻訳の元になった写本が違うためであるとのこと。聖書協会が、ある時期から翻訳の基礎とする写本を変更した理由まではわかりませんが、いずれにせよ、聖書を開いてみてその章がなかったという体験は初めてでした。
親父の言うことを聞かなかったのは、兄か弟か?
マタイの福音書21章を読んでいた時、この時は、新改訳2017の版を使っていたのですが、「父親から、葡萄園に行って働くようにと言われた兄弟のエピソードがありました。父が、「葡萄園に行って働いてくれ。」と息子たちに言った時、兄は、「いやです。」と言ったが、のちに考えを改めて葡萄園に行った。弟は、「はい。」と言ったが、実際にはいかなかかった。父の意に従ったのは、どちらか?と言うお話なのですが、これを読んで、違和感を覚えました。僕は長男なのですが、聖書のエピソードでは、創世記のカイン然り、放蕩息子の兄然り、概ね長男にはろくでなしが多い。ここの兄弟でも兄貴の方が、結局親父の言うことを聞かなんだなあ、と記憶していたのに、逆になっていたからです。
結果、いくつかの聖書では、上記とは逆で弟が父の意を汲み兄が父の意に背くと言うお話になっていました。これもなぜそうなったのか、わかりません。あるいはヨエル書の章と同様、元にした写本が異なっていたのかもしれません。が、珍しく兄貴がいい奴になると言うことになりちょっといい気分です。
話は逸れるけれど、本当に聖書に登場する長男は碌な奴がいない。神様が創造した最初の人、アダムは、人類に罪を背負わせるし、前述のアダムの長男カインは弟を殺す人殺し、アブラハムの長子イシュマエルは正当な後継者ではなく傍系でイサクを虐めるし、イサクの長子エサウはいっぱいの煮物と引き換えに、長子の権利を売り渡してしまう抜作だし、ヤコブ(イスラエル)の長子ルベンは、母のつかえ女と関係を持つ奔放な人間だし、モーセの兄、アロンはモーセがシナイ山に行っている間に偶像を作り礼拝してしまうと言う大罪を犯す。日本語では総領の甚六というけれど、長男でもそんな人間ばかりではないと思うのですが。

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